"Vespro"のナゾ Vol.6
コンチェルト
5つの詩編歌にはさまれる独唱曲(コンチェルト)を見ていこう。
- 3曲目「われは黒し (Nigra sum) 」
- テノール・ソロと通奏低音
- 5曲目「麗しく、私の愛しい人よ (Pulchra es, amica mea) 」
- ソプラノ・デュエットと通奏低音
- 7曲目「二人の天使が (Duo Seraphim) 」
- テノール・トリオと通奏低音
- 9曲目「聞け、天よ (Audi, caelum) 」
- テノール・ソロとそのエコー、後半から6声部
正式の礼拝ではアンティフォナ(交唱)が詩編の前後に歌われるのだが、これらは
いわばそのかわりに歌われるべきものだろう。アンティフォナとコンチェルトを
共に用いた演奏形態もあった(古くはユルゲンス版、コルボの新盤、パロット版
など。最近ではルネ・ヤコブの来日公演がこの形態であった。)が、
アンティフォナを用いれば礼拝的にはそれで十分で、コンチェルトが屋上屋を
重ねる気味があるということで、ガーディナー版を筆頭に最近の傾向は特につけ
加えることなくそのまま演奏するものが多いようだ。
コンチェルトという用語について説明しておくと、後(18世紀以後)の
「器楽の協奏曲」とはもちろん何の関係もなくて、通奏低音の伴奏による(独)重
唱曲をこの時代“コンチェルト”と呼んだのである。 典型的な例ではドイツの
ハインリッヒ・シュッツの「クライネ・ガイストリッヒェ・コンツェルテ
(Kleine Geistliche Konzerte) 第1集1636年,第2集1639年」が有名でわかり
やすいと思われる。
音楽面では、4曲が変化のある編成をとっていることが分かるが、徐々に編成が
大きくなっていることは、作曲家が意図していなかったとは思われない。
テキストの内容を見ていくと、はじめの2曲が愛の歌である旧約聖書の「雅歌」
から採られていることに気づく。ガーディナーなどは、これらをヴェネツィアの
「海との結婚式」という一大イベントの際に用いられた可能性のひとつとして
指摘している。ヴェネツィアの総督が指輪を海へ投げ込むという町あげての儀式
に、ヴェスプロの壮麗さはたしかにふさわしいだろう。
- 3曲目「われは黒し (Nigra sum) 」
- 1曲・2曲と合唱が続いて、この3曲目でテノール・ソロがそれもつぶやく
ように「われは黒し」と入ってくる。「聞き手をほっとさせる効果」大と言わなけ
ればならない。ソロ・マドリガーレ、あるいはオペラの一場面とでも言うべき曲で
あり、テノール\の聞かせどころでもある。
- 5曲目「麗しく、私の愛しい人よ (Pulchra es, amica mea) 」
- 3曲目がテノールの聞かせどころならば、この曲はソプラノのそれである。
しかも、モンテヴェルディお手の物のデュエットである。(マドリガーレ集第7巻
その他の、珠玉のデュエットたちを思い起こしてほしい。)当時は、やはりボーイ
・ソプラノで歌われたのか、あるいはオペラなどにも登場し始めた女声歌手が歌っ
たのだろうか。
- 7曲目「二人の天使が (Duo Seraphim) 」
- 声の技巧としては、この曲などが最高のものを要求していると云えるだろう。
同音で細かく分割して歌ういわゆる“クイリスマ”が随所にあらわれる。メリスマ
も、32分音符の部分を含め高度な技術を要する。もちろん、3人のテノールの完璧
なアンサンブルも必要なのだ。
- 9曲目「聞け、天よ (Audi, caelum) 」
- この曲も、一方の意味でヴェスプロの代名詞と言ってよいだろう。呼び交わす
「エコー(こだま)」の部分である。これは、もちろん離れた位置から歌われるべき
であろう。テノールの旋律(天への呼びかけと云えるだろう)の尻尾の方を模倣して
繰り返す。言ってしまえば「それだけのこと」なのに聞き入ってしまう。こだまが、
かすかにしか聞こえなくとも、それを聞き逃すまいとじっと聞き耳を立てる。そこへ、
トゥッティで合唱が入ってくる。聞き手の心理を見通した手腕と言わねばならぬ。
"Vespro"のナゾ Vol.7ヘ続く
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