教会ホールでの響きをお楽しみいただく演奏会です
- おお,ナイチンゲールよ O Rossirnuol
- (3部作)
−私は苦悩と不安の中を生きるだろう - Vivro fra i miei tormenti
−だがどこに,おお哀れな私よ,どこに - Ma dove,O lasso me,dove restaro
−それでも,あなたのいるそこへ行こう - Io pur verro la dove sete
- (男声)E. Elgar 作曲 “Five Partsongs from the Greek Anthology”より
Feasting I Watch
- (女声)宮田滋子 作詞/木下牧子 作曲 同声合唱組曲“グリンピースのうた”より
グリンピースのうた
- (混声)谷川俊太郎 作詞/木下牧子 作曲 混声合唱曲集“地平線のかなたへ”より
サッカーによせて
- 指 揮 : 当 間 修 一
- ピアノ : 木 下 亜 子
- 合 唱 :京都C.モンテヴェルディ合唱団
【リリエンタールの人力飛行機】事実を言えば“人力飛行機”ではなくて“グライダー”…現在でいうハンググライダー のようなものだったわけです。もちろん、今のハンググライダーとは比べ物に ならない性能。(今のハンググライダーですと、上昇気流をつかまえれば本当に「天へ 昇っていく」ことができます。 世界記録では、酸素マスクと防寒装備をつけて高度1万m 辺りまで昇ったとか…) 記録や図面を調べると、リリエンタールのグライダーでは「崖から 舞い降りてくる」飛び方しかできなかった様です。 また、空力バランスもあまり良くなくて、 操縦する(というか、単に安定を取るだけか?)のに かなり苦労をしていたらしいです。 「突風で墜落」ということになっていますが、性能の良い機体なら 死なずに済んでいたのかも しれません。
寺山修司氏の「飛行機よ」の中の1節ですが…。 “メカ大好き工作少年”の なれの果てである私には不思議な名前ではなかったのですが、合唱団メンバーのかなりの数 にとっては“謎の言葉”だったようです。 昨日、上田達っちゃんが「発明の世紀(?)」 とかいう図鑑本を参考に持ってきてくれたのですが、皆が「へ〜! こんなんやったん。」 という声を… Web 読者の方で「判らない」方もいらっしゃるかもしれないので、ちと うんちくを…オットー・リリエンタール( Otto Lilienthal 1848-1896 )
ドイツの航空技術者。弟グスタフとともにグライダーをつくって飛行実験を重ね、1893年に 単葉グライダーで 300メートルの滑空に成功した。 94年から舵をつけた複葉グライダーの 実験をおこなったが、96年8月 突風のため墜落して翌日死亡。世界最初の航空犠牲者となった。
(世界原色百科事典:第8巻 昭和42年3月10日より …ふ、古い辞典。 ^^;; )
さて、もう一方の飛行機。 国内線の飛行で 高度7000〜9000m|速度850km/h、 国際線の長距離飛行だと 高度9000〜12000m|速度900km/hくらいです。 ご存知かと 思うのですが、少しでも気流が乱れると主翼がびっくりするほど撓みます。大きな機体では、 翼の先端で3mくらいは平気で上下しています。 地上から見れば のんびり浮かんでいるかの ようですが、やはり『空気より重い ( Heavyer Than Air ) 』機械なのですから、必死で 気流の乱れを切り裂きながら前に進まないと、墜ちてしまいます。 このことを、寺山氏が 知っていたのかどうかは判らないのですが…、
ああこれを読むと、私は 尋常ならない“夢の重さ”と、それに抗って昇っていく 意志の強さの様なものへの憧れ、そんなふうに感じてしまいます。
飛行機
飛行機
ぼくが
世界でいちばん
孤独な日におまえはゆったりと
夢の重さと釣り合いながら
空に浮かんでいる ( 寺山修司『飛行機よ』の最後の1節 )
さらにさらに… 人力飛行機について。 (うんちくも、暴走気味ですね。)
皆さんは、人力飛行機が初めて「自力で」地上から浮き上がったのは、いつ頃のことだと
思われますか?
1893 リリエンタール グライダーで 300mの滑空飛行に成功
1903 ライト兄弟 ガソリン動力のプロペラ機で 260mの飛行に成功
1927 リンドバーグ 初の無着陸での大西洋横断に成功
1947 デハビランド社(英)初のジェット旅客機を開発
1961 サザンプトン大(英)人力飛行機「SUMPAC」号 が初飛行に成功
1962 (日本)戦後初の国産旅客機(YS−11)を開発
1966 日本大学理工学部 人力飛行機「リネット」号 が国内初飛行
1968 ボーイング社 (米)B-747“ジャンボ”1号機が完成
いやはや、実は「人力で」飛び上がるのは超難関。要は、パワーの無い(鍛えた人で、
瞬間的に0.3馬力、連続的にだと0.1馬力程度しか出せないとか。)人力で飛ぶために、
非常に軽くて効率の良い機体を作るのが難しかった、ということ。 おおまかに言えば、
翼幅が20〜30mもある機体でパイロットの体重より軽く作らないといけないようです。
最近ではハイテク素材を使って「丈夫に軽く」することが少しは容易になったようですが、
それでも「お天気次第で記録がどうなるか判らない」ようなもの。
(このあたりのお話は、『日本大学航空研究会』の Web
を参考にさせてもらいました。ご興味がありましたら、もっと詳しい話が出ています。)
いずれにせよ、これもまた挑戦する人にとって“夢の重さ”ですら負荷になる様な世界なのです。
【古今東西】
毎々“てんこ盛り”のプログラムが続いている「音楽の贈りもの」演奏会。 今回も、たいがい 山盛りやなぁとは思っていたのですが、練習が進んで歌詞内容まで目が通り始めると…、いや はや その中身の“飛び散り具合い”に、脳みそがフォローし切れないのではないかと、心配に なり始めました。演奏の懐の深さを試されているかのようです。「戦場の悲恋…」の三部作
エルサレムを巡る攻防戦で対峙した男女の戦士…と、この先の結末は“ロミオとジュリエットの 元ネタか?”と思う様な悲劇へ一直線です。 他のマドリガルでポンポン飛び出す“愛と死の 言葉”とは どうも様子が違って、真性の悲劇なのですね。 時代設定は、モンテヴェルディ の頃から数えても遥かに古代…。 どうも、「我が身のこと」でないならば、お話としての 悲劇が読者(聴衆)を惹き付けるのは、和洋を問わず同じなのかもしれません。「これは“生と死”に関するバッハの説教である」 −A. シュバイツァー(医師・オルガン奏者)−
前に取りあげたのは、1996年5月…まる3年ぶりとなります。何度歌っても“しんどい曲” という感想は無くなりません。 見出しの言葉は、当間先生から紹介されたものなのですが、 “眠りを誘う様なお説教”なんてトンデモない!、大熱弁・大力説の『密度』のすごさ! 気を抜いて無事に済む場所なんて、全然ありません。「日本」
五線紙の上に“日本”を表現できるか?と柴田先生が強く意識されたのは、いつ頃から だったのでしょうか? 歌詞はすべて北原白秋の作品から…、ある意味 とても純粋に 「日本的な風景」を写しているもの3編。 柴田作品としてかなり初期のものですが、 すでに「日本」への指向は定まっていたのかもしれません。「言葉の刃(やいば)」
ぼくが小鳥になれば/あらゆる明日はやさしくなる
:
小鳥となるな/すくなくとも ぼくはなるな
: (「ぼくが小鳥に」寺山修司 )
こうして投げ付けられる言葉は、刃のように思えます。二十歳の若さそのままの鋭さで、 過去を・今を・社会を・そして彼自身も切り裂いてしまうような。 そして、私自身は? 切られても血の流れないほど、錆びてしまっていなかったでしょうか?
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