−モンテヴェルディ連続演奏シリーズ Vol.23−
京都文化博物館(別館)。実は、『重要文化財 旧日本銀行京都支店』という 由緒ある建物です。もちろん、内部は展示/ホールの機能のために若干の 改装をされていますが、明治建築の重厚な外観は昔のまま。“壁と天井”も 昔のままの広い空間で、なかなか良い残響が楽しめます。いつもながら 山盛りになったプログラム、ご来聴をお待ちしております。 博物館そのものにご興味のある方は、博物館の Web Page が公開されておりますので、そちらをご覧下さい。
♪ W.バード 4声のミサ Mass for Four Voices
♪ G.アレグリ ミゼレレ Miserere
♪ C.モンテヴェルディ マドリガル集 第3巻より 連作
《寸劇による視覚化の試み》
(第1部) 無事でいておくれ、どうか Rimanti in pace
(第2部) そうしてティルシは Ond'ei di more (瀕死の面もちで…)
♪ 北原白秋 作詞/木下牧子 作曲 「邪宗門秘曲」
♪ 宮沢賢治 作詞/鈴木憲夫 作曲 「永訣の朝」
- 指 揮 : 当 間 修 一
- ピアノ : 木 下 亜 子
- 合 唱 :京都C.モンテヴェルディ合唱団
- 日 時 :2000年 5月21日(日)
開演 … 18時 (開場…17時30分)
- 場 所 :【京都文化博物館】
京都市営地下鉄「烏丸御池」駅下車 徒歩 約3分。
- 入場料 : (前売) (当日)
- 一 般 ¥2500/¥2800
- 学 生 ¥1800/¥2000
- 高校生以下 ¥1000/¥1000
今回の演奏会から、私達はちょっとした“実験”に取組む事になりました。『どうすれば、 イタリア語のマドリガルの世界を もっと濃く実感できるか?表現できるか?』 というテーマです。(遠大な…終わりの無い実験になるかもしれませんが…。) これまでも歌詞対訳は準備して演奏会に臨んできてはいたのですが、やはり 時代と文化の違いによるギャップ=お客様はもとより、歌っている私達自身の理解が 少しでも余計に深まらないと「おもしろさ」に手が届かないのではないか?そう考えたのです。 …と、堅苦しく言うとまた変になりそうですね、なにしろ大半が 色恋沙汰のハヤリ歌 なのですから。
それはさておき、手始めに試してみる事にしたのが「寸劇」、演奏する曲の内容を 語りとマイムで寸劇仕立てにして歌う前にお客様にご覧いただくということです。 “百聞は(…読,かな?) 一見にしかず!”とりあえず見ていただければ、その作品の 「意味」だけはかなりストレートにご理解いただけるはずだ、という思いつきです。 ところが、準備を始めてみるとこれが結構な難物、歌詞にするとごく短い言葉でも 前後関係・背景…と、様々な事を想定して行かないと「動き・振り」をどうすべきか 決められない、なんのことはない「自分たちの理解」の限界が露見してしまった わけです。
でも、これは半ば予想されていた事。めげずにいろいろとアイデアの出しあいです。 合宿の時、ほぼ全員で構成についての意見を出し合ってみて判ったのは、“同じ歌詞 なのに、思っているバリエーションは広い!”事。 逆にいえば、寸劇の構成を 決めて行く中で、今回の演奏についての自分たちの理解の「方向性」がある程度 そろっていった、ということでした。 1人で歌詞(詩)を読む時、どう解釈するかは 読む人に委ねられて自由度があります。でも、演奏する時の設定がバラバラでは 合唱団としての演奏はまとまりません。演奏をする意識の中に「寸劇の構成」という支柱が 通ることによって、演奏表現がより明確になったように思います。
私達は“演技する”ことに対してはズブの素人、「演奏会においでいただいたお客様」 にとって この方法が本当に良いかどうかはまだ判りません。…実験は今始まったばかり なのです。 でも、歌を歌う事に対して何らかのプラスの効果があったのは 確かだったと感じています。
次回もまた「寸劇」に取組むのかどうかは決まっていませんが、イタリア語のマドリガルを もっとダイナミックに表現するという試行を、続けて行くつもりです。 (2000. 6/24 西台 記)
指揮者曰く、『イタリアはルネサンスの本家だけれども、あの“文化”は(日本人には) 理解し切れないかも。あの大らかさ、憧れはするのだけれど、いざ演じようとすると 引いてしまうというか…。イギリスの方は“もしかしたら理解できそう?”と思わせる ところがある。(変な言い方かもしれないが)“根暗さ”が感情に訴えるというか。』2000. 01/31 【“邪宗門”の基礎用語】バードの「4声のミサ」、なぜに“良い”と思えるのか考えてみると…。
・端正…激せず乱れず、かといって平板ではなく喜怒哀楽を潜ませて、 かつ凛として格好よく。
・丹精…丹念に紡いでいかないといけません。曲の各部で何を為すべきか、 判って取組まないとボロが…。
おやおや、まるで『盆栽』みたいじゃないですか! 自然を写して自然物に非ず、 しかし自然にできるがごとき時間をかけて形を整えられていく盆栽。 人工的な “様式美”なのかもしれませんが、自然や人の感情をうまく捉えて見る(聞く) 人に訴えてくるのではないかと思いました。(さて、取り組み回数を重ねて、 今回は“味”が出せますか…。 過去、いつも今一歩つめ切れない感じ を残しているのです。)
今日も“雑感”ならぬ“雑学辞典”の様相を…。 楽譜の末尾の歌詞にかなり注釈が振ってあるのですが、 それでもまだ足りない感じです。 ただ、詩の全文を見ずに以下の説明を読んでも…判りませんよねぇ。 ぜひ、本番にお越し下さい!2000. 01/16 【“2大詩人”激突!】
【古文の部】
桟留縞 …聖トマス(ポルトガル名“サン・トメ”)が布教に来たとの伝説に基づく、木綿の産地たる
インドのコロマンデル地方の異称。 そのサン・トメから渡来した縞のある綿織物。表面は
滑らかで光沢があり、赤糸縦縞を奥縞、紺地浅葱縞を青手という。 (広辞苑 第二版)
あるは …あるいは
天鵝絨(びろうど)…《 Veludo:ポルトガル,Velludo:スペイン》
西洋から渡来した特殊な織り方による光沢に富む織物。ベルベット。(角川 新版古語辞典)
薫る (くゆる) …けむる、くすぶる
さいへ(さいえ) …(実はこれが大問題。またまた家内の助けを借りたのですが…、確実とは絞れていません。)
『さは言へ』(そうは言っても…逆意の接続)と読んでおく方が自然なように、今は思えています。
初め、私は下に書いたような風に捉えていたのですが…なんとなく違う感じがしてきました。
(うちのカミさんの読みの方が、確実みたい。)で、とりあえず補足追記です。(00/05/02)
『さ・いへ』と考えて 「さ」【接頭】名詞・動詞・形容詞などについて、語調を整える語。
「いへ」【名】住まいとしての建物。住み家。(角川 新版古語辞典)
--------------------------------------------------------------------------------------------------- 【解釈の部】 その言葉を何と理解するか? 以下は Webおぢ の個人的解釈。対案があればぜひお聞かせ下さい。
『屋(いへ)はまた石もて造り、…』『…、さいへ悲しき歓楽の音(ね)にかも満つる。』
…キリスト教会は「家」と言うこともあるのですね?確か。教会の建物のことを意味していると思います。
『大理石(なめいし)の白き血潮は、ぎやまんの壷に盛られて夜(よ)となれば火点(とも)るといふ。』
…本当の石でなく、ロウソク 又は 獣脂を大理石にたとえ、ランタンが点ることを意味しているのでは?
『越歴機(えれき)の夢は天鵝絨(びろうど)の薫(くゆり)にまじり、…映像(うつ)すと聞けリ。』
…これはきっと「幻灯機=スライドプロジェクター」のことでしょう! でも、“切支丹”という時代
の考証からいえば滅茶苦茶。“白秋の時代”なら良いのですが。で、隠喩をもう1ひねりしていると
理解して、「教会のステンドグラス」を暗に指したとすると…、如何でしょうか?
『いざさらばわれらに賜へ、…』
…“いざさらば”に2重の意味を持たせているのでは? 文意の上では「さあ・それならば」という呼びかけ
言葉ですが、同時に「別れの挨拶ことば」の側面によって 殉教に赴く情景を想起させるような感じです。さて、厚かましくも しゃあしゃあと解釈まで書いてしまって…。踏み外していないことを祈るのみです。
ご訂正,別解釈,その他突っ込みなど すべからく受付けておりますので、少々の勇み足の義はご容赦下さい。
演奏時間の見込から“あと1ステージ分”という声はかかっていたのですが、昨日の練習で 当間先生の強力な肝いりもあって、『邪宗門秘曲』とあいなりました。 近代日本を 代表する作家の組み合わせということになります。 #…詩のボクシングみたいだ。… さらに言えば、現代日本を代表する合唱作曲者の作品の組み合わせ。 さらにさらに 「指揮者当間の好きな邦人作曲家」の競演。思わず力が入ってしまう様な雲行きです。 (^^; ただ、『永訣…』については音取りも終わり、曲を組立てていくのに“先が見えた”感じも あるのですが、『邪宗門…』は今からなのですね。 楽譜の調達を、と思ってカワイ出版の Web Page を見てみたら、なんと注文生産扱い!。およよ。 練習着手が遅れることに ならなければ良いのですが…。2000. 01/10 【“兜率の天”って、なに?】
いやまあ、これほど「仏教」に関する無知を思い知ることになるとは…。「永訣の朝」の 宮沢賢治の詩の中に“兜率の天”と書かれています。何を思ってこの言葉を用いたのか、 仏教の内容に疎い私は理解できずに、とりあえず辞書を引いてみることに。。。 結果は、もう大変なことで『仏教世界観』を表す言葉を片っ端から引いていくハメに なってしまいました。膨大なのですけれど、ご紹介します。 (以下、特記なきもの以外は『広辞苑(第二版)』からの引用です。)
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三界(さんがい) 一切衆生の生死輪廻する三種の世界、すなわち欲界・色界・無色界。
三界諸天 三界にある諸種の天。欲界に六欲天、色界には十八天、無色界には四天があるとする。
│
├無色界(むしきかい) 一切の色法(肉体・物質)の束縛を離脱した、受・想・行・識の四蘊(しうん)だけ
│ の構成する世界。
│
│ ●五蘊(ごうん) 現象界の存在の5種類。色(しき)・受・想・行(ぎょう)・識の総称で、
│ 物質と精神との諸要素を収める。色は物質及び肉体、受は感覚・知覚、想は
│ 概念構成、行は意志・記憶など、識は純粋意識。 蘊は集合体の意。
│
├色界(しきかい) 欲界の上に位し、欲界の穢悪を離れて物質的なものはすべて殊妙精好であるという天。
│ 四禅天に別れ、さらに十八天に分れる。
│
└欲界(よくかい) 色欲・食欲の強い有情(うじょう)の住する境界。上は六欲天、中は人界の四大洲、
│ 下は八大地獄までの所。
│
│ ●有情(うじょう)生きとし生けるものの総称。また、衆生(しゅじょう)。
│
├六欲天
│ │
│ ├他化自在天 欲界六天の第六で、欲界の最高所。この天に生まれたものは、他の楽事を自由
│ │(たけじさいてん) 自在に自己の楽として受用するからいう。
│ │
│ ├化楽天(けらくてん)六欲天の第五。ここに生まれたものは、自ら楽しい境遇を作り楽しむ。人間の
│ │ 八百歳を1日として、寿八千歳にに至る。
│ │
│ ├兜率天(とそつてん)欲界六天の第四位。内外二院ある。内院は一生補処の菩薩の住所で、
│ │ 弥勒菩薩が住み、常に説法している。日本ではここに四十九院がある
│ │ という。外院は、天衆の住所。
│ │
│ │ ●天衆(てんしゅ)梵天・帝釈天など、天部に属する有情の総称。(注:いわゆる“神様仏様”)
│ │ ●弥勒菩薩 釈尊滅死 五六億七千万年の後 この世に下降して、釈尊の救いに洩れた衆生
│ │ のために竜華三会(りゅうげさんね)の説法をするという未来仏。
│ │
│ ├夜摩天(耶摩天) 欲界六天の第三。この天では、よく時分を知って五欲の楽を受け、寿量は二千
│ │ 歳、その一昼夜は人間界の二百年に相当するという。
│ │
│ ├とう利天 (“とう”は りっしんべんに“刀”。 第2水準文字でも見つからない…。)
│ │ 六欲天の第二天。須弥山(しゅみせん)の頂上、閻浮堤(えんぶだい)の上、
│ │ 八万由旬にある。中央に帝釈天の止住する大城があり、その四方の峰に各八天
│ │ があり、合して三十三天となる。
│ │
│ │ ●由旬(ゆじゅん)古代インドで里程の一単位。四十里(、三十里、あるいは十六里)の称。
│ │
│ └四王天(しおうてん)欲界六天の第一。須弥山の中腹にある。
│
├四大洲(四洲) 須弥山の四方にある、南瞻部洲(なんせんぶしゅう)・東勝身洲・西牛貨洲・
│ 北倶盧洲(ほくくるしゅう)の総称。
│ ※)岩波文庫「法華経(上) 坂本,岩本」の注釈記述には、南瞻部洲
│ の別名として“閻浮堤洲”の呼称が説明されている。
│
│ ●閻浮堤 須弥山の南方にある洲。(中略)受ける楽しみは東・北の二洲におとるが、
│ 仏に会い仏法を聞くことはこの洲を第一とする。もとインドの称であった
│ が、その他の国、即ち日本・中国などをも称し、人間世界の称となり、ま
│ たこの現世の称となった。
│
└八大地獄 焔熱によって苦を受ける八種の地獄、即ち 等活・黒縄(こくじょう)・衆合
(しゅうごう)・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・無間(むけん)。この各々に
十六小地獄が付属している。 鉄囲山(てっちせん)と大鉄囲山の間、または
閻浮洲の地下にあるという。
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●宮沢賢治は、かなり熱心な法華経信者だったらしい。
●法華経の中にある“普賢菩薩が仏に対して立てた誓い”のくだりで、次の様な内容がある。
『(法華経を)受持・読誦してその義趣を理解すれば、悪趣に堕することなく、兜率天上の弥勒菩薩
の所に生まれるであろう。故に我は神通力をもってこの経を守護し、如来の滅後に閻浮堤にひろく
流布せしめて断絶せざらしめんと誓う…。』 ※)岩波文庫「法華経(上) 坂本,岩本」
というような示唆をしてくれました。 宮沢賢治がどこまで詳しく経典の内容を知っていたのかは判りませんが、 来世(極楽)での生まれ変わりにおいて“弥勒の元での平安”を表現したのではないか、という想像は出来そう です。 …それにしても、自分自身は“とりあえず仏教徒の家系”に生きているはずなのですが、こうして 事実を前に呆然とするほど「仏教に無関心」であった、と。(でも、改心せずに無関心に生き続けるのかなぁ。)
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